ココプロ ~ココロを穏やかに保つためのプロジェクト~

ココロのライフハック。自分の心を穏やかに保つために自分で実践していることつづっていきます。

「べき論」で語る人は苦手です。

ご挨拶記事を除くとこの記事が第1弾ですね。

第一弾はこの記事の中身を考えてみたいです。

www.zaikei.co.jp

内容としては、
タクシーの釣銭問題(1万円札で支払おうとすると、運転手に怒鳴られると言う事例)がある。

タクシー会社が現場の問題を抑えていない。トヨタで言うカイゼンができていない。

それは、タクシー会社がお客を一見としか見ていないからだ。

ここまでは、私も同意見です。


幸い、私が一万円札で支払ってもこのような対応の運転手にあったことはないが、本来商売としては顧客満足度を考えても釣銭を用意しておくのが当たり前で、自分が用意していなかったからと言って、お客を怒鳴ったり両替に行かせたりするのは間違っていると思うし、そんな対応されたら二度とそのタクシー会社は利用しないと、心の中で誓うでしょう。

この記事の後段部分から、よくわからなくなるのです。

「タクシーの釣銭問題」は、商売人としてタクシー側で解決するべきことだ。「べき論」を嫌う人は「モラルの低い人」であると断言出来る。なぜなら自分の立場から離れられなくて「他人に依存する」からだ。

このロジックがサッパリわからないのです。『「タクシーの釣銭問題」は、商売人としてタクシー側で解決するべきことだ。』とは、思います。ただ『「べき論」を嫌う人は「モラルの低い人」であると断言出来る。』というのが、よくわからない。

私は、○○すべき。という、言葉を全く使わないわけではありません。
しかし、すごく危険な言葉だと認識しています。

なぜなら、○○すべきという、べき論を語るときは大抵、自分の正義を信じて疑わず他人に押し付ける意味合いが含まれると、私には感じられるからです。

その証左としてこの記事は次のような展開を見せます。

大変危険な「社会問題」で、本来は、客観的な基準を設けて判断して言動することで出来上がっているのが「法治国家」であり、「民主主義の原則」だからだ。これが揺らぎ始めている兆候が「べき論」を嫌うことだ。「どうあるべきか?」と問いかけながら「国会論争」も進められる。「裁判」も進められる。「社会制度」も作られている。これを無視することは、最後は「戦争」に至ることとなるからだ。

私には、議論の飛躍に感じられる。

確かに、「国会」や「裁判」では、このような議論を重ねながら成熟させ「社会制度」が築かれていく側面もあると思います。
しかし、それは議論という同じテーブルに、同じテンションの人が議論を闘わせているから成立するものであって、雑誌や新聞、ネットの記事については、読者がどういうシチュエーションで読んでいるかわからない中で、○○すべき。と語っておいて、それを嫌うやつはモラルが低いと断罪するのは、私はどうかと思います。

そもそも、日常会話の中で、友達がべき論で語りだしたら、私はウザく感じてしまうし、そもそも、べき論を語ってくる人は、意見が確立され過ぎていて、なかなかこっちの意見を受け入れてくれない傾向にあります。もちろん、例外はありますけど。

なので、べき論で語ってくる人は、私はチョット苦手ですね。

この記事で言えば、筆者が『「タクシーの釣銭問題」は、商売人としてタクシー側で解決するべきことだ。』と、意見を表明するのは構わないけど、べき論が嫌いだからと言って、モラルが低いは言い過ぎじゃないですかね。

まあ、とはいえ、私がモラルがないという可能性は否定できませんが・・・・。


こんな風に、思ったことを綴っていきますので、これからも末永くよろしくお願いいたします。