過剰な正論は相手を追い詰める
今日のテーマは過剰な正論について
皆さんは、人と議論を交わすときに一般論や一般常識を用いて正論を言われたために、反論できない状況に追い込まれたことはありませんか。
実際、私も学生から新社会人の時は、そういった議論の仕方で自分の意見を通していました。
でもこのような議論では一般論に落ち着いて、問題解決に繋がらないことを多いということを学びました。
しかも、場合によっては相手の考え方までも否定し始め、結局相手を過剰に追い詰めることによって黙らせる。議論という場そのものをぶち壊すことも少なくありません。
いわゆる、『不毛な議論』というやつです。
そこには、どういう心の動きがあるのか私自身の経験からひも解いていきます。
では、なぜこのような心理状況に陥るのか。
私の場合は、
・議論に負けたくない。
・否定されたくない。
・追い詰められたくない。
・自分自身に自信がない。
・自分をよく見せたい。
このような、気持ちから正論を言っていた気がします。
ちなみに、私はこのようなことをいう人を『ジャスティスさん。』と、呼んでいます。
自分が、『ジャスティスさん。』だった時代は、ありのままの自分で勝負するだけの自信も気概もなかった。
だから、自分を正当化するための鎧として正論を駆使し、少なくとも議論の場で否定されずに議論に勝ち、自分の存在価値を見せつけようとしていたように、今振り返ると思います。
しかし、この『ジャスティスさん。』には、思わぬ副作用があります。
それが、相手を追い詰めたり、時には傷つけてしまうことです。
正論というものは、だれもが反論しにくいものです。
例えば、恋愛で彼氏の浮気で悩んでいる友達に対して、浮気するような男とは付き合うべきではない。と、一方的な自分の価値観を押し付ける傾向にあります。
相談している側がそれで、腑に落ちればそれはそれでいいのですが、それ以外に浮気男に斟酌すべき事情(例えば、金持ちとか、イケメンとか)があるかもしれません。
そうなると相談した側が、相談しても解決しないし、意味がないと思ってしまうのも無理はありません。
ただの友達関係なら遠ざければ済む話ですが、職場や学校など、その人から逃れられないとしたら、地獄の思いをすることになります。
というか、自分もそうさせていた過去があるので反省しきりです。
私自身が今『ジャスティスさん。』に対する対処方法としてできることは、遠ざけれるものだとしたら遠ざける。それが難しいのならば聞き流す。それで問題が悪化するような場合は、正論をいったん受け入れたうえで、議論を別なものにすり替える。
こういった方法を試しています。
ただ、今回の正論はある一定の社会的普遍性のある意見に限ってのことですが、これが主義主張が絡んできて対立するいくつかの軸を一方的に支持し、それを正義だと思っている方については、今回とはまた違った心の動きのように思えるので、機会を改めてまとめていきます。